どうもほうふつです。
鬼滅の刃、8巻まで読んだ。
映画見に行ったけど、やっとその内容に追いついて追いこした笑
どうでもいいけど、鬼滅の刃って打つ時に検索候補に出ないから「おに」「めっする(するはデリート)」「の」「やいば」と毎回入力するのだるい。つまりこの記事を多分書くのはだるいことはこの時点で察している。
さて、おにめっするのやいばですが……
月並ですが、映画より漫画の方が感動しました。
ネタバレはしないのでどこでどう感動したかについては言及しませんが、
悔しいとか、怒りとか、そういう気持ちをイヤな奴には素直にぶつけていいんだと思ったり。
むしろ、それが勇気であり正義だと思えた。
そして、おにめっするのやいばは愛の話ではあるけど、
人がどれだけ努力してもまだ足りず、地面に顔をひたし無力感にさいなまれながらも、また努力して成長していくことの美しさを描いた作品でもあるだろうし、
自分ももう少し頑張りたいなと思えた。
努力は、嫌いじゃないんだ。
ただ、この病気は、努力することと絶望的なまでに相性が悪い。
生きているだけで努力していると言ってくれる人が周りにいることは、そりゃ救いではあるよ。
しかし、生きているだけのことが努力だなんて、素直に思える人間がこの病気を抱える人にどれだけいるだろうか。
生きているだけが努力なら、そんな生は必要なのだろうか。
厳しい病の中で、ただ生きること以上の努力が何かできたほんのつかの間に、やっぱり頑張るって嬉しいな、もっと努力したいな、と感じることを、今この時から封じ込め捨てきれる人間がいるだろうか。
生きる以上の努力は諦められるのか。
諦める方が幸福なのか。
諦めないとして。
生きる以上の努力の儚さ、いとも簡単に崩れさるその脆弱さを、もはや痛いくらいに知ってしまっている人間、自分が、これから何度でも起き上がれる保証はない。
いとも簡単にうつになり、躁になり、意欲がなくなり、また薬の副作用で、続けてきた生きる以上の努力を一瞬で手放させるのがこの病だから。
つまり、この病気の人が生きる以上の努力を諦めないということは、努力がまた何度も何度も病のもとで無に帰す時が待っていることを肌で感じながら、それを覚悟して受け入れて耐えて生きるということじゃないか。
それでも、多分僕は生きる以上の努力を諦めないと思う。
その思いは単なる煩悩か、それとも人としての美しい本能か、はたまた生物の役割にそぐわないエラーか。
分からないけどとにかく、鬼滅の刃を読む中で、僕はもう少し頑張ってみようと思ったという話です。
(もう「おにめっするのやいば」は捨てたんかい)
まぁ、なんだかんだで一時的な感動で人生が救われるなんてことはまずないですけどね。
さすがに、鬼滅の刃にそこまでの効力を求めるほど幸せな思考の人間ではない。
少なくとも、今は頑張ってみようと思ったという話でした。