どうもほうふつです。
僕は中学の頃、英語が一番好きな教科だった。
恐らくそういうところから僕の語学好きの芽は伸びていったのである。
「象は鼻が長い。」という日本語文がある。
これは、英語で言うと
The elephant has a long trunk.
で良いような気がする。
この英訳を日本語に直訳すると、
「象は長い鼻を持っている。」
になる。
しかし、そもそも英訳する前の日本語文の通り、「象は鼻が長い。」というふうに比較的翻訳チックに訳すこともできる。
では、「象は鼻が長い。」と「象は長い鼻を持っている。」は同じなのだろうか。
日本語だったらニュアンスが違う感じがする。
「象は鼻が長い。」の方が「象は長い鼻を持っている。」より周りくどくない感じがするが、後者の表現の方が聞いた時ていねいな印象を受ける……のではないでしょうか。
つまり、どうしても同じ英語の文を複数の違うニュアンスの日本語文に訳せてしまう。
この辺りが語学の難しいところの一つであり、興味深いところだと思ってます。
しかし。
この場合、全ての言語において英語(The elephant has a long trunk.)みたいに「象は鼻が長い。」と「象は長い鼻を持っている。」の両方を導き出せてしまうわけではない。
ペルシア語では、「象は鼻が長い。」と「象は長い鼻を持っている。」の各ニュアンスの文が別々の表現方法で存在している(例文は書かないけど)。
そもそも、
The elephant has a long trunk.
を何故英語で「象は鼻が長い。」というふうに書くと直訳することにはならない(翻訳的になる)のかというと、
「象は」「鼻が」の二つの語句はどちらも日本語文法上の大きなくくりでは主語だが、英語では原則的に主語が一文に一個しか作れないからだと思う。
主語が一つしかない英語の文を、主語を(ある意味では)二つ置ける日本語の文に訳すというのは、直訳するということにはならないはず。
ペルシア語では、一文に主語を二つ置くようなことが文法上できるし、主語一つの文も作れるので、
日本語で言うところの「象は鼻が長い。」と「象は長い鼻を持っている。」といった二つの表現が別々にあるのだと思う。
……着地点。
今回の記事の着地点は!?
そう、この記事を書きながらずっと考えていたことがある。
この双極バラエティの読者に、多分、
「象は鼻が長い。」についての考察を求めている人は皆無である
きっとそういうところなんですよ。ブログって。
あまりにも読者が興味なさそうなことを書いていたら途中で「俺は今ボツを書いているのですか?」と思ってしまうんだね。
読者に興味がない内容を書くこと自体が悪い訳じゃあないんだ。
例えば、双極以外のことも書いて良いし、日常のことも書いて良い。
度が過ぎるのがまずいのだ。
度が過ぎるラインというのは何か。どれくらいのレベルか。
それが分からないのよね
それが分からないからこそ、「俺は今ボツを書いているのですか?現象」が発生するのさ。
明らかに問題がある内容だったら最初から書いてないか書き始めてすぐに途中で原稿消すのですよ。
今回は、グレーなんですよ僕の中で。
まず、ほぼ全員が「象は鼻が長い。」に関心がないことは明らかだ。
今まさにボツへの道を突っ走っているかもしれないと途中で認識しつつ書いたみたいなところある。
……しかし。
一方で、こういう「自己満足」的なことを書いていく自分を許しても良いのでは?という天使のささやきもある訳です。
そもそもこのブログはテキトーにくだらないことを書くという信念の元、始まった。
その解釈によっては、もはや多少度を超えても良いくらいの内容も書いて良いということになるのではないでしょうか?
やはり、最近まで僕がブログをあまり更新して来れなかったのには、「ほぼ何でも書いていい」という気持ちが足りなかったことが原因として考えられるよね。
あと着地点とか考えすぎなんだよ!!つまりオチを付けたがるくせがあるのだ!!
一転して、今回の記事は今回の記事で悪くない気がしてきたぞ!!(情緒不安定)
オチなど要らぬ!!オチなど、要らぬ!!!おしまい!!!!