どうもほうふつです。
先日、下記のツイートをしたところ。
僕は双極症で高校時は不登校で、センター試験すら受けることができませんでした。家にお金がなくて国公立大にしか行けない中で浪人し、自宅で少しずつ勉強してなんとか阪大に入れたのは、「画一的な入試」の制度があったおかげです。不登校の子達の希望をくじくかもしれないような制度はむごいと思う。 https://t.co/UJsMuh4b2x
— ほうふつ@そーきょくせー (@ho_futsu) 2020年2月8日
なんか、800いいねくらい来て400回近くリツイートされました。
これには、
国会議員の蓮舫さんが学生たちを集めて今後どんな方式で新しい形の大学入試を実施するのが良いかについて話し合いをしてもらった
⇒小学校から高校までの社会活動を評価するポートフォリオ方式の導入という案が出た
⇒この内容を含む蓮舫さんのツイートに対し、引用リツイートで東大の教師(?)が「不登校だった自分はもしポートフォリオが自分の時代にあったら東大に入学して教師になることはできなかっただろう。ポートフォリオはダメ。」と主張
⇒ほうふつがさらにこの人のツイートを引用リツイートして上記の内容を載せた
という経緯があります。
正直なところ、こんなに反応があるなんて思いもしなかったので、ここ数日はツイッターの通知欄が常に青い数字で光っていることにびっくりしてました。
800いいねでこれだから、常に数万いいねくらいもらうツイート主ってどんなやねんと思いました。
数百いいねの単位ではまだ「バズった」とは言えないかもしれませんが、日ごろ1ツイートにつき10いいね付けばすごい方だと思ってた僕からすると、800はとんでもない数字です。
また、批判的なコメントが一切なくて、僕のツイートをさらに引用リツイートして「ポートフォリオ方式反対」的なことを述べる人まで出ました。
とにかくびっくりの数日間でした。
で、ツイッターって文字数制限があるんで、ここにもうちょっと深く自分の意見を残しとこうかな~と思います。
まず、僕はポートフォリオには反対なんですが、AO入試は適切に実施されるならナシではないと思ってます。
大学教授が受験生と話してみて、「この人は自分の学部で学ぶために必要な最低限の知識もあるし、ちゃんと興味を持っている」と判断した場合、その人は合格で良いと思ってます。
ただし、これはあくまで僕が思う「適切なAO入試」であり、どれくらい知識があるかとかじゃなくて「なんとなく気に入った」などという基準と言えない基準で合否を決定するのは、不適切なものでありナシだと思います。
で、ポートフォリオ方式に関してですが、
完全に反対です。
小学校から高校までの社会活動を評価する方式とのことですが、
まず、
「社会活動とは何ですか……?????」
ってなりました。
ていうか、そもそもこのケースで言う「社会」って何ですか?って思ったよね。
僕は個人的には、人が生まれてから死ぬまで生きている環境のことを漠然と「社会」だと思っているんですが、
仮にこの僕の思う社会の定義が"正しい"としたら、
社会活動とは「生まれてから死ぬまで生きている間に自分がしたこと全て」
を表すと思うのです。
で、その中でも小学校から高校までの社会活動ということなので、
「小学校から高校までの間に自分がしたこと全て」
を評価するのがポートフォリオ型式になっちゃうのですよね。
ごはん食べるとか、犬の散歩に行くとか、友達とゲームするとか、部活でサッカーするとか、
そういうのを考慮に入れるのが、ポートフォリオ方式。
……な訳がないじゃないですか?
さすがにそれは常識的に考えて頭おかしいじゃないですか。
さすがに蓮舫さんと言えど(言えどとか言ってすみません)、犬の散歩した経験を評価の対象にするという学生の意見はマジで狂ってると思って反対するじゃないですか。
つまり、僕が思っている「社会」と蓮舫さんがツイートした文に載っている「社会」は違うということなのですね。
だから、今回の蓮舫さんの意図した「社会」というのは、もう僕には推測するしかない意味の言葉なんですよ。
で、狂いし僕の脳内ストレージの常識フォルダにわずかに残っているデータを集結させて推測すると、
今回の蓮舫さんの意図した「社会」は、「良いこと」ですね。
しかも、「世間(ていうかいわゆる「オトナ」)からみて良いこと」です。
つまり、このケースにおける「社会活動」は「世間(オトナ)から見て良いことの活動」ということだと僕は考えます。
残念ながら僕、それにあたるもの「ボランティア」しか思いつかないんですけど……
でもそういうことになりますよね?
大学受験者って、「たくさん勉強するため」とか「いい会社に入るため」とか、色んな目的があって入学を希望すると思うんです。
大学は何のためにあるのかっていう議論は非常に難しいところなのですが、
何のために大学があるとしても、僕かなり考えたんですけど、
「小中高でのボランティアの実績を入試での評価にあたりほぼ確実に参考にできるのは『ボランティア学部』だけ」
だと思うのです。
例えばこれに対する反論として、
「大学は実質的には企業や行政などで活躍できるポテンシャルを持った人材を集めて育てる場となっており、小中高の人生でボランティア活動を熱心に行ってきた受験者たちは、そうでない受験者よりも将来的に企業や行政などで働く上で実績を出せる潜在的能力があると見て良い、よって小中高でのボランティア活動を大学入試の評価基準に含むのは妥当」
というのがあるかもしれませんが、
仮に大学がもはや「人材育成機関」となっているとしても、そもそも小中高でボランティアやってた人たちの方が企業や行政などの職務においてそうでない人たちより優秀な結果を出せていることを確実に裏付けるちゃんとしたデータはあるのかっつーことを僕は思うのです。
そのデータがあれば話は少し変わるかもしれません(個人的にはそもそも大学が「人材育成機関」であるべきではないと思ってますが)。
……でも、(あるのか知りませんが)「ボランティア学部」の入試での評価においてはボランティアの実績はめっちゃ重要なんじゃないかと思います!
例えば、フツーに考えて外国語学部の入試で語学力ある受験者って基本的に優遇されて当然だと思うのです。そういう人が受かるような配点になってても誰も文句言わないですよね。
それと同じで、ボランティア学部の入試ではいかに自分が頑張ってボランティアをしてきたかを証明した者が合格するのが当然だと思います!それなら文句なしです!
(ただし、ボランティア学部側が本当の意味で「ボランティアとは何か」をちゃんと考えており、「入試合格に向けた”打算のボランティア”」はボランティアではないという旨の審査基準を設けている場合はその限りではない)
……しかし、僕にはもう思いつかない。
ボランティア学部以外の入試でボランティア経験を入試の審査基準に含める理由が全く思いつかない……
なんでそんなこと考え付いちゃったんだろう。
小中高での社会活動を大学入試合否の判断材料にする方式、つまりポートフォリオ方式を思いついた人はかなりの不思議ちゃんだと思います。
もうね、
逆に論破されたい。
「ポートフォリオ方式を大学入試に組み込むのはこんなに良いことなんだよ!」って説かれたい。
「え~!そんな考え方が!すご~い!思いつかなかった~!!!」ってなりたい。
しかし、これを考え付いた人には悪いけど、僕にはデメリットしか思いつかない。
さて、もう当ブログとしてはかなり長い記事になってしまっているので、あとはポートフォリオ方式のダメだと思うところを羅列して終わります。
ここまで長文を読んで下さりありがとうございます!
~ダメだと思うところ~
・「社会活動」をたくさんする暇と余裕がない貧しい家庭の子たちに不利
・不登校の子たちは学校に行けてない時点で「社会活動」してないとみなされるに違いないため不利
・障害や難病を抱えている子たちには「社会活動」したくてもできない子がいっぱいいるので不利
・ボランティア活動の成績が良くて入ってきた学生に対し大学教師のほとんどは「どうして学業の成績が良いわけではない子が来たの……?(教えたくない)」と困惑する
・基準があいまいなため裏口入学に結び付きやすい
・小中高の時点で「社会活動」に集中して基礎的な学習をおろそかにする子どもが増える可能性がある
・ダメなところっていうか、これを言ってはおしまい的なことなんですけど、そもそも特定の大学に入りたいという打算で「社会活動」やってる時点で厳密にはボランティアじゃないしボランティアを本当にやってる人たちに対して失礼だし援助を受ける側も「お前らの大学入試のために使われたくない」と思うかもしれないしまあとにかくポートフォリオ方式を思い付いた人は不思議ちゃんだと思うよ
(追記
書くの忘れてましたが、60歳とかで大学入る人たちも実際います。その辺のことは多分全く考慮されずに編み出された入試方式なんだろうな〜と思いました。)