双極バラエティ

こんにちは。双極性障害Ⅱ型の33歳男が日常をくだらないテイストで綴っていくブログです。

運動会の練習の声が聞こえてくると辛い(その2)

こんにちは。今日はいつも診察してもらっている病院に行ってきました。

 

医師の先生から、具合はどうですか?と尋ねられ、今は大分体調が安定しているのですが、私は美容院のシャンプーの時「かゆいところはありませんか?」と言われたらそれまで全くかゆみがなくても意地になってかゆいところを探すタイプですので、先生のその質問に対し、「今日は朝ごはんをちゃんと食べずに来たので何となくきついです」という相手(精神科医)の意図を無視する返答を頭の中で用意しました。

 

しかし、私は同時に「かゆいところがあっても絶対に言えないタイプ」でもあります故、実際には「具合は問題ないです」という返しをしました。問診に対する何気ない返答一つ取っても、人は己の中で本音と建前の押し問答を繰り広げるものですよね。私だけですか?

 

 

さて本日の茶番もこのくらいにして、前回の続きを書いていきたいと思います。

 

 

前回の記事では、筆者のうちの近くにある高校(母校)から運動会の練習の声が聞こえてくるのが辛い、ということを説明し、その理由の一つとして「元気な彼らと無職の自分を対比してしまうから」というようなことを述べました。

 

今回は理由その2について書きたいと思います。その理由とは、「声を聞いたら、高校の時運動会が死ぬほど嫌いだった記憶がフラッシュバックする」というものです。

 

運動会が嫌いだった訳は色々あるんですが、いくつかに絞って書いてみます。

 

 

運動会が嫌いだった訳1:運動が苦手

 

何のひねりもない理由なのですが、これを避けて書くことはできないでしょう。運動が苦手。このことだけで、中学~高校時代は油断するといつ撃たれてもおかしくないサファリライフを送ることとなりました。少なくとも私の育った環境では、運動が苦手というだけで、意地悪なスポーツマンや怖い系の女子に目を付けられたり、無視されたりすることがあったのです。

 

特に高校2年生の時は、何故か私以外の男子が全員運動部なおかつその中に友達が一人もいないという、「先生方酔ってダーツで決めました?」的なクラス編成になり、話す人がおらず、思い出すのも辛い日々を送りました。最終的には「サボる諦め、 プライスレス」という指針のもと、数か月学校に行かなくなりました。(というか、多分これきっかけで双極性障害が発症しました。)

 

というわけで、私にとって競技をすることを強いられる運動会は「最悪」の2文字を冠する行事であり、運動会の練習から本番までの期間は地獄でした。

 

 

運動会が嫌いだった訳その2:「皆でなにか一つのことをやり遂げよう!(強制)」が嫌い

 

とにかく嫌いでした。

これは、チームや団体で目標を達成するために頑張ることを否定しているわけではありません。(むしろ、それに関しては私は好きですし、結構してきました。)

私が言いたいのは、

「①『皆で一つのことをやり遂げる体験をする』というのが目的として先に存在しており、それを満たすためになにか皆でやることを後で準備する。」

「②そして、準備した目標を達成するプロセスは、全員参加である。」

というのがどうしても受け入れられなかったということです。

 

考え方にもよると思うのですが、少なくとも私にとって、まさに母校の運動会というのはこの①と②を満たすものでした。

 

まず①が嫌な理由は、私は「先に何か達成したいことがあり、そのためにはチームや団体で取り組む必要があり、その結果として皆で一つのことをやり遂げる体験をすることになる」という順番が好きだからです。これは感情の問題です。少し具体的な例を出すと、部活の団体戦に、皆で一つのものを達成する経験をするために練習・参加するのではなく、あくまでも勝つために皆で挑みたいのです。

 

こんなことを言うと、「部活の大会だって、そもそも『学生が皆で何か一つのことをやるために作られた』のでは?」という意見が出るかもしれません。確かに、開催する側にはそういう意図もあるでしょう。ただし、少なくとも私は、部活の団体戦にその意図を感じないのです。

 

ただし、母校の運動会にはその意図を感じていました。その意図の存在を察して、冷めていました。

 

少し本論から外れるかもしれませんが、上記の考えでいくと、母校の運動会も「学生が皆で何か一つのことをやるためにあるイベント」臭がしていなければ、私はこの点においては特に嫌じゃなかったかもしれません。

 

 

また、「②そして、準備した目標を達成するプロセスは、全員参加である。」に関しては、「皆で何か一つのことを達成する」際の「皆」にやりたくない人を含めるというのが理不尽だと思っていたので憤りを感じていました。

 

「①『皆で一つのことをやり遂げる体験をする』というのが目的として先に存在しており、それを満たすためになにか皆でやることを後で準備する。」の時点で嫌、という話は上述の通りですが、この①っていうのは「皆」に自分が含まれなかったら正直、どうぞ勝手にやってくださいじゃないですか。私も、自分の感情に従って、皆で一つのことをやり遂げるという目標ありきのイベントが嫌い、美しくないと思うだけで、他のそう思ってない人達がそれをするのは一向に構わない訳じゃないですか。

 

なんで、巻き込まれなあかんの?ってなりません?

 

そして「最初やりたくなくても後で楽しくなるかもしれないじゃん」とか「教育の一環なんだから全員参加に決まってるでしょ」という反論については、普段から意見のダイバーシティを認めに認めまくることで定評のある私もカウンターを入れざるを得ません。

 

運動会が嫌すぎて自殺する人、絶対いますよ。

 

避ける選択肢はあるべきです。

 

 

 

運動会が嫌いだった訳3:汚れるから(詳細なし)

 

以上です。PCに向かい過ぎて肩が痛いのでもう今日はやめます。長文読んで頂きありがとうございます、バイバイ!

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 躁うつ病(双極性障害)へ
にほんブログ村