どうも、ほうふつです。
なんか、僕は人を嫌いになり切れない傾向があるのです。
いやなことをされても、なんだかんだで長所を見出そうとして、なんとなく「あの人は本当に悪人ではない」と思うことがあるのです。
これは、ある種デメリットのような気もしますよね。
何故なら、いやなことをしてくる人を無理に肯定する行為は、自分の脳にある意味では勘違いを強制することだと考えており、
脳に勘違いを強制することは、結構心的に辛いからです。
優しい自分を保つために自分の脳を、心を痛めつけるというのは、ムダな行為なのではないかととらえられるかもしれません。
ただし。
僕は、人を嫌いになりきれない人の方が好きだったりします。
人間関係において、簡単に他人を嫌いになり切れる人は、なんというか、あまり賢くないような気がするのです。
僕は、誤解を恐れずに言うと、「とても賢い人」が好きです。
この場合の「賢い」というのは、接する相手のことをていねいに考えることだと思ってください。
また、僕は自分に自信がある人が好きです。
ここで皆さんは「ん?」と疑問を抱くかもしれません。
自信があるというのは、人を嫌いになり切れず苦しむことと、矛盾するような気がしませんか?
でも、僕の中ではそれらは別々の問題だったりします。
自信がある、というのは、この場合「自己愛」がちゃんとある、という意味です。
僕は、自分が好きです。ナルシストの領域だと思います。
その一方で人を嫌いにはなり切れず、自分の心を痛めつける。
でも、そんな自分が好きなのです。
苦しんでいる自分が好きなのです。理解しがたいかもしれませんが、これは自分に自信がある、自己愛があるということだと思っています。僕の場合はね。
逆に、人をすぐ嫌いになれるという性格をもし自分が持ってしまうとしたら。
僕は自分のことを嫌いになるだろうと思います。
接する人の気持ちのことを簡単に切り捨てる性格は、自己愛に結び付かないような気がするんですよね。僕の場合ですが。
いやな人の「嫌さ」の程度にもよりますが、僕は自分を痛めつけてまで他人のことを考え長所を探す自分の性格を、より美しいと考えるタイプなのです。
まあ、メッセージ性のあることを言うのはこのブログではあまりしたくないんですが、
少しいやな部分をもっている人に対しても長所を見つけようとして苦しむ人が、なんだかんだでそういう自分は賢いと思う、という考え方をするのはアリだと思います。
この考え方には認知療法的な面があると僕は思いますし、認知療法的なことはあまり僕は好きくないんだけど、
少なくとも僕は、いやな人をすぐ切り捨てる人よりも、そうじゃない人の方がずっと頭がいいと思うよ。
多分、すぐ人を切り捨てることができない人の多くは、自分に自信がないと自分で思っている人だと思うんだけど、
そういう自分が好きである、というふうに思うようになれたら、少しは気が楽になる人もいるかもしれないよね。
もちろん、いや過ぎてもはやゴミだとしか思えない人と距離を置くのは大事です。例えば毒親とかね。
そこで無理をすると、自分が壊れてしまいます。それは絶対ダメです。
それでも、「あの人には良いところもあるかもしれない」と思うこと自体は、美しいと思います。
では、これにてあでゅー。