超久しぶりに双極ネタを書きますわよ!
このブログでは、「障害年金や障害者手帳の恩恵は存分に利用していい」ということを、口が酸っぱくなるまで書きまくってきました。
詳しくは過去記事を漁ってください。
ただし、今回の記事で、もはやその必要はなくなるかもしれない。
「障害年金は遊ぶのに使うな!」とか「障害者に見えないようなやつが障害者手帳を申請するな!」とか、そういう意見に対しこのブログではノーを叩きつけまくってきたのですが。
じゃあ、仮にそういった意見が道徳的な意味での正義だとしよう。
障害年金などの「手当」は、空気読んで申請するのをためらったり、使い道に関しても空気読んで奢侈するのに使わないことが、正義だとしよう。
その正義、その空気に、僕らが従わないと、僕らが悪とみなされるとしよう。
ならばもう、僕は悪でいい。
これが、今回言いたいことです。
僕は悪でいい。そして、「手当」の恩恵は得られるだけ得る。
それで、いい。
だって、生きるのって、生活するのって、厳しいですやん!
障害者だけじゃない。日本のかなり多くの人が、生きるのは難しいんだ!
空気読む?何それおいしいの?だよ!
そんなんやってられるか!
使えるものは、たとえ正義から逸脱していると思われようと、使う!
そもそもよ。
障害年金などの「手当」の申請、享受に関して、なんで法律の範囲内でやっていいことをやっているだけなのに文句言われなあかんのだ。
「障害者は清くあらねばならない」という前提が、そこには隠されていると思うんだよ。
いやいやいや、
清廉潔白なんてやってられるかよ!
たとえ今僕が「手当」を存分に享受していることが道徳的に悪いことだとしても、
道徳?知るか!
使えるものは、使う!それが正義にもとる行為だとしても、何か使えるものには全部すがって生きていくのだ!
法的に使っていい全ての手を使い尽くす。それが、道徳的な意味での正義か悪かなんてことよりも、僕が生きることにおいて大事なことなのだ。
これまで当ブログでは、割と論理的に「手当」を存分に受けていい理由についての記事を書いてきました。
しかし、よく考えてみれば、その記事の内容も、「手当を享受するのは悪じゃない」という視点から書いたものだったと今では思います。
しかし今、僕は、今回の記事の「感情論」的な内容の方が、より的を得ている考え方だと思っている。
たとえ今自分がやっていることが道徳的に悪でも、やる。ただそれだけ。
感情が論理を凌駕しているのです。
僕は障害者だけど、全く清く正しく生きるつもりはないし、生きているつもりもない。
あえてもう一度言おう。
僕に清廉潔白を求めるな~!!!!
以上ですあでゅー!