どうもほうふつです。
この一年、振り返ってみて、
自分は何をしたんだろうと考えました。
ぼくにとっては、大きくて具体的なことは何一つ成し遂げていません。
まあ、TOEICのテストで良い点数取ったり翻訳学校に入って無事に進級できたりと、いわゆる小目標の達成はできたとは思います。
でも、僕の中ではこれは通過点に過ぎなくて。
やはり、翻訳の仕事ができるようになるまでは「成し遂げた」という気分に酔うところまではいかないのだと思います。
ただし、以前もこのブログで述べましたが、
「翻訳者になる」という具体的な大きな目標をかなえるため、その通過点をひとつひとつつぶしていって努力していること自体が「病気に勝つ」「双極に勝つ」ということだと思っており、
つまり、僕は今年双極性障害に勝った一年だった。何か大きなことをを達成するだけが「勝ち」ではないんだ、と確信しています。これは、今年良かったことの一つだと言えます。
さて、上記の通り、具体的な大きな目標を達成していない道半ばの自分ですが、
それでも今年、具体的でないことで、ふんわりしていることなのですが、一つ得たことがあります。
それは、「自分がかわいそうだと思わなくなった」ということです。
僕は、高校の時からずっと自分がかわいそうな人間でした。
高校2年のとき、双極性障害(のうつ状態)になってから、不登校になりました。
これは、人生で一番辛かった。こんな苦しい世界があり、自分がそこに足を踏み入れることになるなんて。
みんなが学校で勉強や部活をしているとき、うちでは僕のせいで両親が毎日毎日ボロ泣きしてた。
かといって、親を安心させるために自分が病気から回復して学校に復帰したり、ほんの少しでも笑った顔を見せることすらもできず、
悔しくて、情けなくて、なんでこんなことになったんだろう、なんて自分はかわいそうなんだろうと、ずっと思っていた。
高校を卒業してからも、
体調不良による予備校からの離脱、大学での不登校、そしてうつでの就活の断念、留年。
一昨年は、ベッドから動けなくなって、会社を辞めた。
26歳にして、親に依存する生活が始まってしまった。
なんで自分がこんな目にあわなくちゃいけないんだろうと、いつも思ってた。
僕が双極を発症した理由は、厳密には分からない。遺伝的要因の可能性も考えられる。
ただ、高校2年の時。これこそが発症の原因だとずっと思い続けて、それでも直視できなかった、認めたくなかったことがある。
僕はクラスで一人だった。一人も友達がクラスにはいなかった。
授業の合間、クラスメートたちが賑やかに談笑している中で、ただただ机に突っ伏して時が過ぎるのを待っていた。
昼休み、一緒にご飯を食べる友達もおらず。当時の僕にとって、これはひどく辛いことだった。
そして、いつからか、授業を受けている途中で、猛スピードで駆け抜けるとりとめのない言葉の羅列で頭の中が満たされるような感覚が、僕を襲うようになった。
窓の外をみて、今すぐここから飛び降りて死にたいという考えすら浮かんできた。
そんなことが3か月ほど続き、ある日、ついにベッドから動く力すらほとんどなくなった。
でもその日、僕は学校に無理やり行った。
親が、学校を休むのはダメだ、行きなさいと言ったから。
このことを、うちの親は今でもずっと後悔してる。
自分たちが無理に学校に行かせたせいで、今双極だと判明している病気がより深刻なものになったんじゃないか、と。
こんな思いを親にさせている自分が、みじめで、貧弱で、かわいそうだった。
これまで何度死のうと思ったか分からないし、リスカはしなかったけど、自分で自分の首をしめたり、体中を引っかいたりと、自分の存在を否定するためにできる限りのことをやってきた。
なんでこうなったのか。
そして、なんで俺は今、十分な年齢の大人なのに、他の同年代の人たちのように羽をのばして世の中をキラキラと舞っていくことができないのかなって、思ってた。
でも、今年は変わった。
もう、自分がかわいそうじゃなくなった。これが、今年得た、具体的ではないけど最高の変化だ。
同級生たちが立派な会社にいて、壮大な結婚式を挙げ、子どもを作り、それなりの暮らしを送れていること。
これに対して何もない自分が、もうかわいそうではなくなった。
なんでそうなったのかは正直分からない。
ただ、考えられる理由として、「他人の人生と自分の人生を比較する意味はない」という誰でも思いつくような自己啓発めいた理論が、僕の身体に適切にインストールされ、しみ込んだからじゃないかとは思ってる。
実家暮らしが長くなるにつれ、外界と交わることが圧倒的に減った。
そして、一年が過ぎつつある。
もう、僕の頭の世界において、キラキラと翼をはためかせる鳥たちは見えない。
代わりに僕の脳裏にうつるのは、多種多様な動物たち。
つまり、世の中には色んな人たちが、色んなことをして生きていて、
その中に僕がいるに過ぎないと感じられるようになったんだ。
それまで自分以外の他人は全て、翼を持つ単一の種類の鳥にしか見えていなかったし、その鳥たちに憧れ、そうはなれない自分をかわいそうだとばかり思っていたんだけど、
もう、その比較をさせてしまうある種の病は、今年僕から消えた。
僕は、「自分だけがかわいそうだと思うな、何にもなさそうで、実は他の皆も辛いんだから」といった押し付けのセリフは、めちゃくちゃ嫌いだ。
ただ、そもそも比較することをやめられたら。
「他の皆」なんている世界に住むことをやめることができたら。
僕にとっては、楽になった。
自分がかわいそうじゃなくなる、という状態。
これは、良いことばかりではないかもしれない。
あまり心理学とかはよく分からないんだけど、僕は、自分のことをかわいそうだと思う人というのは、自己愛がとても強いのじゃないかと思っている部分もある。
でも、自らを愛する、いたわることは、きっと大事なことでもある。
そういった意味での自己愛は、生きていくうえで本来無くしちゃいけなかったものなのかもしれない。
でも僕は、しばらくはこの「かわいそうじゃない自分」という状態を続けてみようと思う。
もしかしたら、また自分がかわいそうになるかもしれない。人生って何が降りかかるか分からないし。
でも、もう僕は、再び他の人間が、単種の鳥たちに見えることはないんじゃないかと思ってる。なんとなくね。
……てなわけで。
今年一年皆様お疲れさまでした。
そして双極ブロガーの方々、そして読者さん。
僕から言えるリッパなことは何もないんだけど、
来年も、ともに病気と戦いましょう!笑
ではでは、温かくしてよいお年をお迎えください~!
(今年最後の)あでゅ~!!!