私は小説をあまり読まないのですが、数少ない好きな小説の一つに小野不由美という作家の「十二国記」シリーズというのがあります。
その十二国記シリーズの最初の作品(正確にはそう言っていいのか分からないのですが)として、「魔性の子」(新潮文庫)という小説があります。
(以後、ネタばれになってしまうのですが、)
とある高校で教育実習生をしている男性が、ある男子高校生と出会います。
その男子高校生の周りでは、なぜか大けがや死亡事故などの恐ろしいことが相次ぎ、同級生は誰も彼に近づこうとしません。
これまでの人生でなにかと他者と折り合いをつけて生きて来れなかったとの思いを抱くその教育実習生、広瀬は、彼に自分と同じ、「本当はこの世界の人間ではない。本来どこか違う世界の特別な存在なんだ」ということを感じ、やがてひきつけられるようになります。
しかし、その男子高校生は、彼自身すら忘れてしまっていたのですが、実際「本当に特別な存在」でした。
彼は人間の姿をしているものの、実は異世界から迷い込んだ「麒麟」という生き物だったのです。
その麒麟である男子が全ての記憶を思い出し、物語のラストで元々の世界に帰っていくシーンで、教育実習生の広瀬は、「どうして俺を置いていくのか!」と叫びます。
自分は、特別な存在だと思いたかった。
しかし、彼と違い自分は間違いなくこの世界の人間で、特別ではなかった。
救いはなかった。
私は、たまに「もし自分が双極性障害じゃなかったら、なにかもう少しすごい『なにか』になれていたかな」と思うときがあります。
幼いころは皆、大人になったら自分はすごい「なにか」になれるんだと思っていましたよね。
大人になるにつれ、ほとんどが公務員やサラリーマンを目指すようになるのが現実というやつなんですけど。
私は小さな頃から人一倍「自分は将来は『なにか』になれる、特別な存在なんだ」という意識が強かったです。上記の教育実習生の広瀬みたいに「本来違う世界の人間だ」とまでは思いませんでしたが。
中学、高校生になってもその思いはあまり変わらなかったというか、何らかの形で自分は「なにか」になれると思っていました。ちょっと子どもっぽいところがずっと続いていたのかもしれませんね。
で、このブログをいつも読んで下さっている読者の方々ならこの後どういう話の展開になるか分かると思うのですが、高校2年生の時に双極性障害が発症しまして。
3か月くらい学校を休んだらうつが治り、高校3年生からまた学校に行きはじめたのですが、秋になるとまたうつになりまして。
何とか高校卒業して、浪人して大学受験するために予備校に通ってたんですけど、それも秋くらいにうつになって、結局行かなくなり。
どうにか大学には入れたものの、大学生活でも何回も軽躁とうつを繰り返す、といった具合になり。
で、いい年こいて「自分は特別なんだ、『なにか』になれるんだ」と思っていた鈍い私でも、だんだん認めざるを得なくなりましたよね。
この病気では、「なにか」になることができないということを。
双極性障害でも活躍している人はいる、若いんだし希望を捨てないで、という、反論というか、私のためを思ってそういうことを言ってくれる人、本当にあなたはやさしい人です。
でも、その言葉は、言ってしまえば、「確率は0じゃない」という話なのです。
現実として「なにか」になれる可能性の程度は、いちいち言いたくないくらいのものでしょう。
もし、双極性障害じゃなかったら。
躁とうつになる期間が人生の大部分を占める生活じゃなかったら。
自分はなにかになれたかな。仕事とかで。
家族や友達の前で「ただ生きてるだけで、幸せ」って、強がって笑う必要もなかったのかな。
私には、「魔性の子」の広瀬の気持ちが分かる。
自分は特別な人間じゃなかった。そのことを認めざるを得ない辛さが分かる。
ただ、自分なりにふつうの生活を送って一生を終えることを、悲しんでいる訳ではありません。
意外と、「なにか」にならなくても楽しく暮らしていけてます。
本当にそう思ってます。
むしろ私は、やりがいのある仕事より、楽な仕事して生きていきたいとか、今はそういう考えなんです。
ただ、もし双極性障害じゃなかったら、「なにか」になれていたかもしれない。
たまに、そう思う時がある、というだけの話です。
その「たまに」が時々私を締め付けてくるという話です。