どうも、つい最近までおニャン子クラブを動物の猫ちゃんのチームだと思っていた超ピュッアピュアボーイのほうふつです嘘です。
この茶番の流れからマジメなこと言うの空気的におかしいとは思いますが、今日はダイバーシティの話をします。するったらします。
ダイバーシティとは、この場では広い意味での多様性と定義します。早速始めましょう。
ダイバーシティを認めるとはどういうことなのか。
色んな考え方があると思いますが、僕の考えでは、一言で言うと「自分への二枚舌」を持つことです。
分かりにくいですね。例をあげます。
例えば、良いとされる学歴を持っているけど仕事は比較的にあまりできない人が同僚にいるとします。
一方で、本人は学歴は比較的ないけど仕事はデキる人です。
その本人は、「自分は暗記が苦手で大学などの受験はうまくいかなかったけど、学歴がある同僚より応用力はある。大事なのは知識量より知識の応用力だ」と思っているとします。
ここで、本人が「自分の方が、良い学歴持つだけの人より優れている。学歴は仕事をする上で意味がない」と考えることは、僕としては肯定されるべきことだと考えます。自己肯定は大事だと思うからです。
しかし、だからといって学歴がある人に対し、お前の学歴には意味がないなどと言って直接自分の考えを押し付けたり侮辱したりするのは、ダイバーシティを認めない行為に該当すると僕は思います。
自分の方がすごいと思う。正しいと思う。
しかし、難関の受験をクリアしてきた人も、それはそれで存在を認める。少なくとも高学歴という理由だけで非難はしない。対立しない。
こういうのがダイバーシティだと思うのです。これが、自分への二枚舌です。
ただ、この場合問題となるのは、「論理的思考を追求すると、自分を肯定し、正反対の人も肯定することになる」という矛盾をどうするか、です。
すなわち、ダイバーシティを認めるということは、自己の中で論理的な矛盾を起こすのです。
ではどうするか。
論理を捨て、矛盾を受け入れるしかないと思うのです。
上記の学歴の話はまだ比較的大した問題じゃないと思います。しかし、これが、例えば宗教対立の話になってくると、より深刻度が増すと僕は考えます。
エルサレムにおいて、イスラーム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒の対立が問題になっていますが、この問題の要因は、一言で表すと彼ら自身の譲れない信仰を互いに認めさせようとすることだと言えると思います。
この問題は非常に繊細なのですが、これを解決する方法は論理を捨てることだとしか、僕には考えつきません。
ダイバーシティを認めることとは、自分を肯定し、自分と正反対の立場、考えの人も肯定すること。
これをせずに、どうやって対立を解消できるでしょうか。僕には分かりません。
ちなみにですが、僕はイランに住んでいたことがあるのですが、イスラーム教徒のイラン人には、「私たちはイスラーム教徒だけど、あなたにはあなたの信仰がある。信仰が違っても、私とあなたは友達になれます」という考えの人も結構いました。
国家的にイスラーム教至上主義が「強いられている」イランの人々でさえこうなら、実は、宗教上の対立は、民衆レベルではある程度解決しているのかもしれません。命をかけてまで自分の信仰を押し通す人は、もう少数派になりつつあるのかもしれません。
ダイバーシティを認めることは、自分への二枚舌。
この実現はしんどいかもしれませんが、人が死ぬくらいならやった方が良いんじゃないかと僕は思ってます。
ではでは!