どうも、ほうふつです。
昨日、翻訳学校で初授業がありました。
(※僕はプロ翻訳者を目指してます)
英語リスニングとリーディングの授業がそれぞれ週に1回ずつあるのですが、昨日はリスニングでした。
(通訳者ではなく翻訳者を目指していますが、諸事情でリスニングの講座も取ってます)
授業の内容は、あまり詳細に語ると万が一学校から怒られてしまうかもしれないので簡潔に述べますが、
・まず英語の文章の音源をぶっ通しで聴く。
・次に、その文章をシャドーイングしながらまた聴く。
(シャドーイングとは、文を聴いたそばから即座に真似して発話する訓練法、と言っていいはず)
・その後、音源を一文ごとに止め、日本語訳を発表させられる。
・最後に音源のスクリプトが配布され、それを見つつ日本語訳をさせられる。
......みたいな感じでした。
僕含めて4人の生徒が受講していたのですが、
他の生徒は帰国子女や留学経験者など、「デキる」方々でした。
このブログを以前から読んで下さっている方でも恐らくご存じない、というか僕が特に書いてこなかったのですが、
僕は英語に関しては完全に独学です。
英語圏に住んだこともなければ英会話スクール的なところにも行った経験もほぼないです(小学生の頃ちょっとだけ行きましたがすぐやめました)。
大学は外国語学部だったのですが、ペルシア語専攻で、在学期間の途中までほぼ英語の勉強はやってませんでした。
その証拠(?)に、大学3年時に初めて受けたTOEICの点数は445点、
大学4年目で受けた時は505点でした。
多分、いくら英語専攻ではなかったとはいえ外国語学部生にあるまじき低い点数と言えるでしょう。
で、大学5年目から結構勉強して、730点を取ったんだよね。
その後は760⇒785⇒725⇒900(現在)というふうに推移しました。
そんなこんなで独学でしか英語をやっておらず、本日の授業では海外経験があるクラスメートたちに正直多少の引け目を感じましたが、
逆に(?)言うと、独学でそんな人たちと同じレベルのクラスに入学できたのは、まあ頑張ってきた成果と言えるんじゃないかと。
で、少し話は変わるけど、言語学習って、双極性障害との相性はあまり良くないと思うんです。
語学力って楽器とかと一緒で、サボったらその分ウデがサビるので、特にうつ期が長い場合はx歩進んでy歩下がるみたいな感じを繰り返すんだよね。
僕は最近は長期にわたってうつになることが少ないのである程度勉強を継続できているけど、
大学時代はとにかくうつ期が長くて、本業であるペルシア語の学習すらまともにできなかったのが辛かったですね。
......とまあ、色々ここまで雑に書いてきたのですが、結局、
僕は「双極性障害患者の成功例」になりたくない
っていう思いがあるというのが今回言いたいことなんです。
はっきり言って、僕は双極性障害だけど語学にはそこそこ強いと思ってます。
上記の通り、本来言語学習と双極の相性は悪いと思っていますが、それでも僕はなんとか語学力を向上させて行くのが得意と言えば得意です。
独学で英語勉強して、TOEIC900点という英語圏留学者が目指すような点数を取れたのは、自画自賛になってしまいますが、
英語習得に関する僕の能力や興味の強さが重要な要素として、客観的に見ると無視できないでしょう。
で、何が言いたいかというと、
僕がそれなりに英語力向上においてうまいこといってても、もっと言うと仮に翻訳者になれたとしても、
「双極性障害患者の成功例」というラベルを自分に貼りたくない、
少なくとも自分から「双極性障害だけど成功しました!」とは言わないってこと。
けっこういますよね、双極だけど仕事や勉強うまいこといってます、成功してますっていう人。
そこで止めるなら実はまだ問題ないんです。
でもその更に先、すなわち、「僕にできたんだからだれでも努力したら成功できます!」というフレーズは、絶対言いたくないのです。
だって、無責任じゃないですか。
本人たちの能力がある程度十分にある場合ならば、双極でも成功できる可能性がある。
でも、必ずしもそうとは言えないのに、病気で大変な人がそのフレーズを信用し、苦しみ努力して、結果挫折してしまった時、僕にはその人に「夢」を見せた責任が発生すると思うんです。
そしてその責任は取れません。だから、双極の人でも成功できるよというフレーズは言いません。
将来における成功の夢を見ること自体は本当に尊くて美しいですが、
安易に他人に夢を見させるリスクについては、見させる側は考えないといけないと思うのです。
以上、雑多気味の内容になってしまったけれど、今回は終了です。
ありがとうございました!
うーん、今回は考えすぎたかな?