どうもほうふつです。
この世の中には、頭脳が明晰でも欲深く、ものや他者をむさぼる人間というのが存在しますよね。
例えば、私利のために不正を働く官僚などがそうと言えるでしょう。
今回も「呂氏春秋」の内容をヒントにこの件について考えてみました。
(呂氏春秋については過去記事↓をご覧頂ければどんなものかおおよそご理解頂けると思います。)
soukyokuvariety.hatenablog.com
『呂氏春秋』(町田三郎、講談社学術文庫)の一節では次のことが書かれています。
「人間は若いころは単純で愚かだが、年とともに賢くなる。しかし賢いが不公正であるよりは、愚かで公正であるほうがよい。(孟春紀 貴公)」
これは割と真理じゃねーかなと。
「賢い」の定義とは何かという問いに対しては、ここでは「勉強ができる人、知識のある人」だと答えておきます。
どれだけ賢い人間でも、私利私欲におぼれ自らの権力を振りかざすなどして他者をむさぼって生きる者はクズだと僕は考えます。
そういう人間は、その愚かさの度合いによれば生きる価値はないでしょう。
何故なら、そういった人たちの身勝手な都合のせいで誠実に生きている人たちが死ぬことがあるからです(例えば、政府にとって都合の悪い文書を改ざんするように命令した愚かな官僚のせいで自殺に追い込まれた下位の役人のケースなどが当てはまります)。
どちらのタイプの人の命を優先するべきかを考えると、やはり圧倒的に公正に生きている人間の方だと思います。
つまり、勉強ができず知識はないが公正な人の方にこそそれとは真逆の人間よりも生きる価値があるのではないかと僕は考えるのです。
あえて乱暴な言葉を使うと、勉強はできるけど人を踏みにじるバカよりも、そうではなくともマジメに生きる者の方がエラいということを僕は今回言いたい。
僕は立場的に他の多くの人間をリードしていく人たちは賢いに越したことはないと思っていますが、その賢さは他の人たちの心情を思いやれる優しい人の手にあってこそ力となるのではないかと考えます。
私利私欲を以て立場を利用し他者を圧する人間は、そのひどさによっては生にすら値しないと思います。己のことしか考えずに他人を苦しめる人の賢さなど、言わば「猫に小判」でしょう。
逆に言うと、賢い(勉強ができる、知識がない)訳でなくとも公正に生きる人は、自分が賢くないことにコンプレックスを感じ自らを責めた果てに自死をする必要はないのではないでしょうか。
そもそも「死にたい時に死ぬ自由」が認められるべきかという議論もあるかと思いますが、少なくとも「自分は生きるに値しない」と判断する必要性はないのでは。
賢いけど愚かな人間のために賢くなくとも公正な人間が死ぬというのは何ともバカげたことのように思います。
正義、正しい人の道といった言葉の定義は多種多様ですが、僕の中では少なくとも公正な人間の命を愚かな人間から守ることはそれらの意味の一つにあてはまります。
ではこれにてあでゅー。