お世話様様、ほうふつです。
一か月ぶりくらいの更新です。
「ほうふつ、ブログ全然書かないじゃん。もうやめたら?」
という大勢の読者たちの声が僕の脳みその言語領域をバンバン空爆してきてますが、
底辺這いつくばりブロガーとしての矜持がまだ僕にはありますんで。
僕がブログをやめるのは、炎上してしまった時と心の中のグリーンDAKARAちゃんが「(やめて)いいんだよ!」って言ってきた時と決めてるんでね。
不人気だろうがブログ村の躁うつ病ランクが圏外になろうが続けますよ。
求められてなくてもな。覚悟しろや。
さて茶番前説もほどほどに、今回は「人はいつ障害者になるのか」について考えてみましたので、それを話してみようと思います。
人が障害者になる時。
それは、人それぞれと言ってしまえばそうですが、
などといった、ある具体的なイベントを通過した時だと考えている人も少なくはないんじゃないでしょうか。
しかし、僕の場合は違いました。
手帳をとったり障害年金もらったりしても、すぐに自分が障害者であるという自覚を持つことはあまりなかったのです。
でも、現在は、自分は完全に障害者側の人間だと思っています。
それは、何故か。
抽象的に結論を言ってしまうと、「時間が経ったから」です。
具体的には、手帳を利用してこれまで何度も割引料金で電車に乗った、あるいは障害年金を使って遊んだり、税金の支払いをしたりしたというような実的経験を通して、いつの間にか自分が障害者であるという認識が確固たるものになってきたということです。
手帳をとると決めたときは「ああ、自分は障害者になるのか」と思っていたのですが、
実際に受け取っても、障害者だという自覚がすぐに芽生えることはなかったんです。
制度を利用するなかで、育まれていったような感じなんですよね。
このことから僕が推測するのは、
後天的に障害を持った人が障害者だという自認を持つにはある程度の時間と経験が必要なのではないか、ってことなんです。
それまで自分のアイデンティティの中にあった「健常者」が「障害者」に変わるのには経過を要する、と思うのです。
特に、双極性障害のように、目に見えなくて自分でも障害なのかどうかが分かりにくい病気の人は、そうなんじゃないかと思います。双極性障害の診断を受けた人でも、「障害者側」としての確固たる位置に自分が含まれるとは思わないのではないでしょうか。
ひょっとすると、「事故で手や足が切断された」という人でさえ、すぐに自分が障害者になったのかどうかを頭の中で判断することはできないのかもしれません。
しかし、明らかに健常者だった時と生活の仕方や社会とのかかわり方が変わっていくのにつれて、だんだんと障害者としての自覚が生まれ、いつか健常者というアイデンティティに置き換わるのだと思います。
ちなみに、障害者としての自覚を持つことのメリットは、特に申し訳ないと思わずに割引やその他の支援を受けられるようになることだと最近は考えています。
やはり、最初は自分が障害者を優遇する制度を利用するということには少しためらいがありました。今はないです。
僕が思うデメリットは、完全に自分は健常者ではないという認識があるため、健常者の人たちと接するとき「自分は絶対的にこの人たちとは違う」というふうに考えてしまうことです。壁があるという感じです。特に、初めて会う人たちに対してはそう感じます。
まあでも、健常者と障害者のはざまにいるような感覚を脱したのは、僕にとっては良かったかな。なんとなくだけど。
今回はこれで終わり!次の更新は未定だがそんなに更新チェックしなくてもいいぜ!
あんさんらの貴重な時間は他の有意義なブログを読むのに使ってくれ!(⇐読者へのホスピタリティな気配り、やさしいでしょ。いっぱい褒めてくれてもいいからね。)